記憶の片隅と未練

急に決まった出張で早めに仕事が片付いてレンタカーを走らせていたら、ふと目に留まった地名に馴染みがあった。
小さい頃からよく家族で出掛けて、すごく可愛がってくれるおじさんがいたのを思い出した。
ドライブ好きな家族だったから、休日に車で出掛けるってなったら、よくせがんで連れて行ってもらっていた山の中の小さな資料館。いろんなことを教えてくれた館長のおじさんは10年近く前に亡くなっていたのは知っていたけど、なんか懐かしくて。
いつも父親の運転で行っていて、それこそ最後に行ったのははるか昔のはずなのに記憶はしっかりしていて、迷いもなく酷道と化した道を飛ばした。
携帯も圏外になってしまって、確かめようもないけど、なんとなくもう「ここだ。間違いない。」そんな心境だった。
https://www.flickr.com/photos/126161047@N02/31171465787
なんか不思議すぎる気分だった。草木が生い茂っていて向こうが見えないのに、確実にここだったと思った。
草木をかき分けて入って行くと、懐かしい建物があった。
https://www.flickr.com/photos/126161047@N02/32239475098
ちょっとした広場になっていたところも完全に草木に覆われてしまっていた。
https://www.flickr.com/photos/126161047@N02/31171465837
10年近く時が過ぎて変わってしまったとはいえ、その場所に立つと、記憶が溢れてきて、すこし立ち尽くしてしまった。
https://www.flickr.com/photos/126161047@N02/46110660141
Ricoh GR10 GR Lens 28mm/f2.8 Kodak 400TX


数枚写真を撮ったけど、写真で残されていない自分の記憶こそ残しておきたいと思ったからなんだ。
記憶の蓋が開くというイメージが今回の体験には近いものがあって、やっぱりそれはその場所に行くことで起こるんだろう。
あまり感傷的になりたくはないが、通り過ぎていった日々の記憶は大事だろうがなかろうが関係なしにどんどん薄れていく。
記憶の断片を繋ぎとめておきたいっていう未練が写真という形になるのか。